[プロダクション・ノート]
実戦に参加した英独の指揮官たちが技術指導
今次大戦で敵味方に戦った英独両軍の上級将校たちが戦闘場面その他の指導をした。英軍ばかりでなく、故ドイツ軍の扱い方も慎重を期したということは映画史上に特筆すべき大作に情熱を捧げた立派なフォアマンの態度である。英軍側指導者の代表はD・J・T・ターンブル少将、ドイツ軍指導者の代表はフリッツ・ベイアライン中将である。
D・J・T・ターンブル少将
今次大戦の一九四三年から四六年までエーゲ地区爆撃隊司令として当時ドイツ軍占領下のエーゲ海を三八一回も攻撃した。この地方の地理には彼以上に詳しい者はない。彼の指揮した「空軍」部隊がドイツ軍を追払ってアテネに進駐した時、ギリシャ政府は彼に「グランド・コマンダー・オブ・ザ・オーダー・オブ・フェニックス・アウイズ・スウォード」という最高の勲章を贈った。
フリッツ・ベイアライン中将
地中海作戦当時、有名なドイツ軍ロンメル将軍の参謀長であった。彼は「砂漠の鬼将軍」 「砂漠の鼠」 「今は死ぬ時ではない」等の映画でも技術指導を行った。
ギリシャは全面協力 映画界にブームを作る
「ナパロンの要塞」の撮影はギリシャ政府の全面的な協力があって出来たといえる。ギリシャの外務省、国防省、商務省、情報教育省が直接協力した。
陸軍は戦車、飛行機、ヘリコプター、曲射砲、臼砲、機関銃、1000人以上の正規の歩兵を提供した。海軍は十二隻の駆逐艦、各種の艦船を貸与した。
商務省は撮影見学のためギリシャを訪れる人々に税関、移民法に特例を設けた。国立観光協会は「ナパロンの要塞」が各国で公開されてからギリシャを訪れる観光客招待のために二八万ドルの予算を設けた.
フォアマンは撮影隊本部をトルコ海岸沖のロードス島に置いた。この島の文化はクレタ時代(紀元前3000─1500)に初っている。強大な海国であったが戦乱にまき込まれ変転の末、今世紀初頭三六年間伊領であったが一九四八年ギリシャに復帰した.
第二次大戦後、ギリシャ、トルコ、イタリーの三国協定で完全非武装の島となっていたが「ナパロンの要塞」撮影中は臨時にこの条約は保留されることになった。
この歴史的な島で撮影中、フォアマンは芸術家のみに与えられる賞をただ一人の外国人として受けロードス島の名与市民になった。彼の前にこの賞を受けたのはローマの哲学者アポロニアスだった。
この「ナパロンの要塞」はギリシャでの映画製作を刺載したようだ。その後、イギリス、アメリカの各映画会社で九本の映画がギリシャを背景に作られているので証明している。ギリシャ・ブームが映画界に初ったわけである。 |