[パンフレット] 353作品

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解説、プロダクションノートはパンフレットの表記そのままで掲載していますので誤字・脱字・旧字・旧仮名づかい等があります。ご了承下さい。

<ナ行>

殴り込み海兵隊
殴り込み戦闘機隊
ナチ帝国大戦秘録 勝利と敗北
ナバロンの嵐
ナバロンの要塞
ならず者部隊
にがい勝利
肉弾鬼中隊(1957)
二世部隊
ニュールンベルグの戦犯 13階段への道
ネイビー・シールズ
ネレトバの戦い

 

ナバロンの要塞

1961年8月発行
A4版16P

[解説]

これは激戦下にあって不可能など思われる任務を敢然と遂行した不屈な六将兵の物語である。
今次大戦に於いて、緒戦からドイツ軍に圧倒されていた連合軍が一挙に態勢を挽回し、勝利へのきっかけを作った特筆すべき作戦が幾つかある。陸の北亜エル・アライメン大決戦、海にあっては本映画「ナバロンの要塞」の原作となったエーゲ海ナバロン島要塞爆砕作戦等は特に有名である。
天然の要害を形成し、難攻不落といわれたドイツ軍のナパロン島要塞に制圧されていた英軍が爾後の作戦遂行と中立国トルコの去就、この二つの意味から是が非でも陥さねばならぬ必死の作戦がこれであった。全く無謀と判断された計画を全軍から選ばれた六人の将兵に命令する。いわば特別攻撃隊ともいうべき、この六人の闘志と各特技を生かすことが作戦遂行の要点であった。だが各々の経歴と性格は苛烈な特攻作戦の展開と共に互いに反撥し合い葛藤をはらんで一瞬の予断も許さない。凄絶な戦闘と、緊迫した場にある男たちの心理が鮮烈に描破されて見事である。こゝに、この映画が戦前戦後を通じて最高の戦争映画として採りあげられる大きな理由があるのである。
製作は「チャンピオン」 「シラノード・ベルジュラック」の脚色で一流のシナリオ・ライターであり「真昼の決闘」 「鍵」の脚色・製作として知られたプロデューサー、カール・フォアマン。二十九ケ国に翻訳紹介された世界的ベスト・セラー、アリステイア・マックリーンの小説をカール・フォアマン自らが脚色、ベルリン映画祭最優秀作品賞の「追いつめられて」「北西戦線」のJ・リー・トムプソンが監督、「真昼の決闘」 「紅の翼」「老人と海」で四つのアカデミー賞に輝くディミトリ・チォムキンが作曲並びに音楽指揮、 「日曜はダメよ」のマノス・ハッジダスキンが作詞、 「ハバナの男」のオスワルド・モリスが撮影、 「戦場にかける橋」のジェフリイ・ドレークが美術を担当している。
主演は「大いなる西部」のグレゴリー・ペック、 「旅路」でアカデミー主演男優賞を受賞したデビッド・ニヴェン、 「炎の人ゴッホ」「革命児サパタ」で二つのアカデミー賞を受賞したアンソニー・クィン、 「地獄特急」のスタンリー・ベイカー、 「戦艦シュペー号の最後」のアンソニー・クェイル、「俺の墓標を立てるな」のジェームス・ダーレン、 「決戦珊瑚海」のジア・スカラ、ギリシヤ映画界の人気女優で「侵略者」のイレーネ・パパス等である。
五〇〇万ドルの製作賞。ニケ年の製作準備と五ケ月の現地調査、七ヶ月の撮影、英軍とギリシャ政府及び軍当局の後援を得た現地エーゲ海諸島の撮影の大がかりなことは当時、世界的な話題を生んだ。

[プロダクション・ノート]

実戦に参加した英独の指揮官たちが技術指導
今次大戦で敵味方に戦った英独両軍の上級将校たちが戦闘場面その他の指導をした。英軍ばかりでなく、故ドイツ軍の扱い方も慎重を期したということは映画史上に特筆すべき大作に情熱を捧げた立派なフォアマンの態度である。英軍側指導者の代表はD・J・T・ターンブル少将、ドイツ軍指導者の代表はフリッツ・ベイアライン中将である。

D・J・T・ターンブル少将
今次大戦の一九四三年から四六年までエーゲ地区爆撃隊司令として当時ドイツ軍占領下のエーゲ海を三八一回も攻撃した。この地方の地理には彼以上に詳しい者はない。彼の指揮した「空軍」部隊がドイツ軍を追払ってアテネに進駐した時、ギリシャ政府は彼に「グランド・コマンダー・オブ・ザ・オーダー・オブ・フェニックス・アウイズ・スウォード」という最高の勲章を贈った。

フリッツ・ベイアライン中将
地中海作戦当時、有名なドイツ軍ロンメル将軍の参謀長であった。彼は「砂漠の鬼将軍」 「砂漠の鼠」 「今は死ぬ時ではない」等の映画でも技術指導を行った。

ギリシャは全面協力 映画界にブームを作る
「ナパロンの要塞」の撮影はギリシャ政府の全面的な協力があって出来たといえる。ギリシャの外務省、国防省、商務省、情報教育省が直接協力した。
陸軍は戦車、飛行機、ヘリコプター、曲射砲、臼砲、機関銃、1000人以上の正規の歩兵を提供した。海軍は十二隻の駆逐艦、各種の艦船を貸与した。
商務省は撮影見学のためギリシャを訪れる人々に税関、移民法に特例を設けた。国立観光協会は「ナパロンの要塞」が各国で公開されてからギリシャを訪れる観光客招待のために二八万ドルの予算を設けた.
フォアマンは撮影隊本部をトルコ海岸沖のロードス島に置いた。この島の文化はクレタ時代(紀元前3000─1500)に初っている。強大な海国であったが戦乱にまき込まれ変転の末、今世紀初頭三六年間伊領であったが一九四八年ギリシャに復帰した.
第二次大戦後、ギリシャ、トルコ、イタリーの三国協定で完全非武装の島となっていたが「ナパロンの要塞」撮影中は臨時にこの条約は保留されることになった。
この歴史的な島で撮影中、フォアマンは芸術家のみに与えられる賞をただ一人の外国人として受けロードス島の名与市民になった。彼の前にこの賞を受けたのはローマの哲学者アポロニアスだった。
この「ナパロンの要塞」はギリシャでの映画製作を刺載したようだ。その後、イギリス、アメリカの各映画会社で九本の映画がギリシャを背景に作られているので証明している。ギリシャ・ブームが映画界に初ったわけである。