| [プロダクション・ノート]
この映画の製作は10年前、オリヴァー・ストーンが原作者のロン・コヴィックと会い、共同で脚本を書きたいと提案した時から始まった。コヴィックは、「ストーンもベトナムで2回負傷しており、若い帰還兵の物語を正確に描く脚本を書けると思った」と語る。また「オリヴァーと私は、非常に異った環境から(彼の父は株式仲買人で私の父はA&Pという大手スーパー・マーケットの支店のマネージャーだった)ヴェトナムヘ行き、戦い、故郷へ帰った。共通の体験によるこの絆は普遍的なものと思った」。
そして1986年「プラトーン」が公開されアカデミー賞を受賞、絶賛されたことから、続編「7月4日に生まれて」が映画化へむけて始動した。
ストーンは言う「ロンの物語を語ることによって私は、ヴェトナム戦争後に帰還兵が行き着いた彼らの心に近づけたらいいと思った」
オリヴァー・ストーンは、時代と体験を正確に描写するため、それぞれの専問家をアドバイザーにつけた。高校のレスリング・シーン、反戦パレード、政治集会、海兵隊の戦闘、麻痺患者の生活、60年代スタイルのデモなど全て。元海兵隊員デイル・ダイや故人となった活動家アビー・ホフマンなど、極端に違う分野の専問家たち。おまけにダイは大佐を、ホフマンは反戦集会での演説者を演じたのである。
映画は、20年間におよぶアメリカ人の生活を描く。それはニューヨークの小さな町、沿岸のヴェトナム、大学のキャンパス、帰還兵の病院、メキシコの砂漠といった広範な地域で展開する。ヴェトナムとメキシコのシーンはフィリピンで撮影された。
テキサスで、そして後にフィリピンで俳優たちは海兵隊員になり、武器の訓練を受けた。ストーンとダイは、フィリピンで撮影されるヴェトナムのシーンのロケが、コヴィックがいた砂の海岸を描くようにした。これは「プラトーン」で描かれた島のジャングルとは対照的なものである。
ロケの故郷のシーンは主にダラスの周辺で撮影されたが、そこは「トーク・レディオ」が完成されたばかりの場所であった。そして1957年のニューヨーク州マサペカに似せるために数区画を新しい家にした。この“町”は1969年のシーンにも使われた。
7月4日のパレードと学生のデモと大統領選挙のための党大会は、12,000人のエキストラが、アメリカ・レジョン、キャンプ・ファイアー・ガールズ、ナショナル・パラリシス・ファウンデーションのような、地元の団体から集められた。
「海兵隊員になるということがどういうことであるかを、トムに知らせることは非常に重要だった」とストーンはいう。「1960年代には、ロンのような若者にとって、海兵隊員になるということは、最高のことだった。デイルとともに、私たちは彼に、そのエッセンスを理解させようとした。それはさしてむずかしくはない。トムのような才能があればね」。
ダイとは正反対のところにいるのは、ヴェトナム戦争について、アメリカに反対した人々である。「アビー・ホフマンは60年代についての非常に多くの情報を教えてくれ
た、素晴らしい人だった」と、ホーはいう。「オリヴァーは戦争を戦った側で、反対した側ではなかった。そこで、私の仕事の一部は、彼がそれを確実なものにするための情報、60年代の正しい感覚と外見を観客に見せるための情報を、得られるようにすることだった。ホフマンに加えて、ストーンは他の60年代の活動家(その中にはジェフ・ナイトバードも含まれていた)に相談し、もちろん、ヴェトナム帰還兵による反戦組織で活動し、帰還兵の権利獲得運動のリーダーを長くやっているロン・コヴィックにも相談した。
トム・クルーズは、「レインマン」の撮影に入る前に、ロン・コヴィックと話し、帰還兵の病院もリハビリ・センターで麻痺の状況や障害者の生活を調べていた。撮影にはリハビリ・センターの専問家がついてトム・クルーズの描写に間違いがないかどうか見ていた。
ロン・コヴィックはいう。
「故郷に帰って以来、私の人生は私に起こったことに意味を与えようという葛藤の連続だった。私にとってこの映画は、この葛藤のクライマックスだ。私の犠牲に意味があったと知ることが、今日の私を生きさせている」。
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