[パンフレット] 353作品

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解説、プロダクションノートはパンフレットの表記そのままで掲載していますので誤字・脱字・旧字・旧仮名づかい等があります。ご了承下さい。

<ワ行>

ワイルド・ギース
ワーテルロー
若き獅子たち
わが故郷の歌
わが闘争
若き勇者たち
鷲は舞いおりた
鷲の指輪
ワルソー・ゲットー

 

ワーテルロー

ケン・ブックスNo.129

1970年12月発行
発行所:ケンリック極東株式会社
A4変形版36P

[解説]

この映画は、映画化するには余りにも壮大な計画であるため、製作者自体で資金を調達することができなかった〈ワーテルローの戦闘〉を、忠実に描いた最初の作品である。
製作者ディノ・デ・ラゥレンティスは、数十年前に〈ワーテルロー〉の製作を決心していたが、彼の大製作会社だけではとうていできない計画でもあった。
その間、他のいくつもの製作者に協力を働きかけたが実現できず、結局、ソ連のモスフイルムが、彼に協力することになった。
モスフイルムは、製作費の一部400万ドル、ソ連軍兵士20,000名と騎兵部隊のアレンジメント、ウクライナにあるウズゴロド郊外での戦闘シーン撮影に必要な便宜、その準備などのため大勢の技術者、撮影関係者の手配を受持ったのである。
この1,200万ドルを超える〈ワーテルロー〉の製作費は、今迄に作られた映画の中で、巨費をかけた超大作の中の1本に数えられるものである。もし仮に、西欧でソ連軍の援けなしにこの映画を作ったとしたら、その費用は3倍以上になったであろうことは疑いない事実である。
この映画には、数ヶ国の人々の努力の結晶が、国際色豊かに繰りひろげられている。ディノ・デ・ラゥレンティスはイタリア人、監督のセルゲイ・ポンダルチュクはソ連人である。イタリアとソ連両国の技術者たち、イギリスとフランス両国のアドバイザー、ユーゴからのスタントマンたち、そして、スターはアメリカ、カナダ、アイルランド、イギリス、イタリア、フランス、ソ連国籍の人たちである。
戦闘シーン撮影にあたっては、5台のパナビジョンカメラが、地上と空中のヘリコプター、ロケ地を横切るように敷設されたレールを走る汽車から同時にまわり、臨場感と完壁性を期したのである。戦闘地を再現するために、ソ連技術者たちは、2つの丘陵地を平地にならし、谷間を切り開き、5マイルに及ぶ林を造り、ライ麦畑、大麦畑や野生の花畑を作り、歴史的な建造物を再製したのである。

[プロダクション・ノート]

撮影にさきだつ数ヶ月前から、ソ連正規軍の訓練が始められた。近代戦に関しては既に訓練の必要もない軍人たちなのだが、この映画は、1815年と云う150年以上も前の話であって、当時の歩兵操練をはじめ、戦斗体型や様式、大砲の扱い方までが、当時の軍装の腰鞄や銃剣で行うのである。19世紀初頭の旧式小銃の弾丸込めや射撃の仕方には、特に選ばれた2、000人の部隊員が特訓をうけた。
エキストラ出演のソ連軍人たちは、結構この撮影を楽しんでいた。彼等はこの撮影期間中、ソ連技術者たちによってウズゴロの外側の農場を地ならしして造られた巨大な野営地で生活した。ワーテルローを形遣った撮影地と、この野営地との中間地には、撮影に必要な大道具・小道具を初め種々の格納庫が設置されて居り、彼等は毎日早い朝食をすませると野営地から撮影地に向って行進し、途中、衣裳格納の大倉庫ビルに寄り、夫々フランス、イギリスなどの出演軍装に着替えるのであるが、さすが、訓練のゆき届いている軍隊だけあって、15分後には再び集合地に隊列を揃えるほどであった。彼等の指揮はやはり各部隊の将校であるが、監督セルゲイ・ボンダルチュクが更にウォーキートーキーで彼等に指示
を与えていた。
エキストラのソ連正規軍や各国のキャスト連を苦しめたのは、ぬかるみ(実はわざと撮撮のため給水管を引いて造った6マイル四方に亘るもの)と陽が上ると急騰する気温であった。キャメラマン達撮影スタッフを含めて、総員泥まみれ汗みどろ状態であった。ほんの僅かな立木や日陰をつくってくれるものがあると、彼らにとっては唯一の救いであった。
この間ボンダルチュク監督の格好は極めて特異なものだった。長身で灰色の髪、よれよれ帽子にゴム長靴といった姿は、一見ジョージアの田舎農夫というところであった。
このこみ合ったシークェンスと大集団アクション映画〈ワーテルロー〉の製作をセルゲイ・ボンダルチュク監督が、スケジュールより僅か16日おくれただけ、然も悪天候下に於いての条件で完成したことは、彼にとって最高の仕事であったに違いない。