[プロダクション・ノート]
タブラダの基地の格納庫には十機の模型飛行機が用意されている。外の滑走路にはこの十機の本物が並んでいる。中の九機はハインケルの爆撃機で一機はB25である。
スペイン空軍のパイロットはこの模型を使っての飛行説明に聞き入っている。通訳つきで、言葉の違いにもかかわらず、撮影側とスペイン・パイロットとはうまくいっているようだ。説明は15分で終る。本物の飛行機が撮影のために離陸していく。
セビリアから300マイルほど北のサン・セバスチャンは、この映画のため町の一部に灯火管制をしいた。これはこの町が1940年代のベルリンによく似ているためで、ここで、ロンドン爆撃のきっかけとなった英国のベルリン空襲が撮影された。
ベスト・セラー作家で日本の今上天皇や、ハイル・シェラシェ皇帝についての著述をものにしているレナード・モーズレイはこの映画制作に関する本を書くために撮影隊について歩いた。
彼は1940年代に新聞記者として、この戦いをドーバー海峡のシェークスピア・クリフで見たからである。彼に云わせれば、このスピットファイアとメッサーシュミットの空中戦はまるでゲームのように見えたそうだ。但し本当に生死を賭けた。
タブラダの基地は全く忙しくて、複雑で、文字通り、戦争さながらであった。
例えば空中撮影隊が上空で撮影している一方で、別の撮影隊はドイツ軍のエース達の室内シーンを撮り、滑走路では、ドイツ軍パイロットが出撃で愛機に走って行く所を撮るという具合であった。
これ以上更に忙しくなるのは、通信と運送の問題、明日の撮影プランを作っていくことなどであるが、彼らもこの戦争で勝利を収めることができたそうだったから士気は盛んだった。
時代考証の方も厳密を極めた。将校クラブの灰皿の形、ドイツ軍兵士のボタン、そして、ドイツのボンにある古記録保管所でたくさんの資料を調べた。ドイツのオーソリティの全面的協力も受けた。最も難しかったのは、1940年代のドイツ人の普段の生活を知ることであった。
スペインのプンタ・ウンブリアには墓まで作った。普通の墓ではない。つばさのついた墓である。爆撃機を護衛していったドイツ軍戦闘機は、たいてい、空中戦の最中に燃料不足になった。後十分という所で赤ランプがつくようになっていた。そしてその十分で22マイルの海峡を飛んで帰るのだ。無事に帰った戦闘機、砂浜に墜落した戦闘機。そしてこういう戦闘機はそのまま墓となった。
■2年がかりで飛行機集める
ロケ地のイギリスは初夏だというのに冬のような気候。ロンドンから約120キロ北のロヶ地ノースウィールドの飛行場は荒天続きで撮影が4日間もストップ。なにしろ大所帯なので、何もしないでも一日約300万円が消えていく勘定だ。この飛行場は、大戦当時、実際に大爆撃をうけた歴史的なところ。現在も英空軍の基地なのだがこの大作のため、英空軍あげての協力体制がとられていた。広い飛行場には、ずらりとスピットファイヤー機が並んでいる。独軍と戦った本物ばかりである。なかには新しくこの撮影のために造られたものもあったが、それらは爆撃シーンで本当に爆破してしまった。こうした本物の戦闘機集めには大変な苦心が払われだということが、当時パイロットとして活躍していた人たちが2年がかりで英国各地から集めてきたという。
独軍側のメッサーシュミット機にいたっては、スペイン空軍が保有していたものをごっそり買い込みスペイン空軍は、その金でジェット戦闘機を新調したというのだから話は大きい。曇天のためスケジュールを変更して接写撮影が行なわれた。
■英、独、西空軍が全面的な協力!
今年5月まで、半年がかりで行なわれた、クライマックスの一つドイツ軍の空港爆撃シーン撮影では、テレビモニターやトランシーバーなどの連絡網を駆使しての科学的なロケーションにもかかわらず、連日負傷者が続出した。
英空軍は、この負傷者のため、空軍病院の看護婦を派遣、野戦病院を設置、ロケの行なわれたラプラタ飛行場(スペイン)などは、さながら実戦の雰囲気。
従来のものと違い、第二次世界大戦の史実を忠実に再現する映画とあって、英国政府はもちろん、英国側から、ドイツ側から、スペイン側からの、当時の記録にもとずいた撮影には、それぞれ各国空軍の全面的な協力を得、かつて例を見ない、大スケールの戦争巨篇となった。 |