[パンフレット] 353作品

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解説、プロダクションノートはパンフレットの表記そのままで掲載していますので誤字・脱字・旧字・旧仮名づかい等があります。ご了承下さい。

<カ行>

戒厳令
帰らざる勇者
影の私刑
カジュアリティーズ
風とライオン
合衆国最後の日
語らざる男
カミカゼ
眼下の敵
ガンジー
艦隊は踊る
帰郷
危険な道
機動部隊
奇襲戦隊
キプールの記憶
キャッシュ
キャッチ22
橋頭堡を攻撃せよ
逆転電撃作戦
巨大なる戦場
キリング・フィールド
禁じられた遊び(2種類)
空挺部隊
空軍大戦略
空爆大作戦
駆潜艇 K-255
グッドモーニング、ベトナム
暗い日曜日
グリーンベレー
クリムゾン・タイド
グローリー
クロスボー作戦
軍法会議
ケイン号の叛乱
激戦地(1946)
撃滅戦車隊3000粁
血戦奇襲部隊
決戦珊瑚海
原子力潜水艦浮上せず
攻撃(2種類)
極楽ホテル
地上より永遠に
コルチャック先生
コレヒドール戦記
コレリ大尉のマンドリン

 

空軍大戦略

昭和44年9月発行
発行所:東宝株式会社事業部
定価:250円
A4変形版36P

[解説]

「人類の戦いという分野で、これほど多くの人々が、これほど少数の人々に、これほど多く助けられたことはなかった。」
これはウィンストン・チャーチルが、1940年の盛夏の16週間の戦いの後、感動をこめて英国空軍に贈った賛辞である。
英空軍戦闘部隊が如何にしてこの4対1というハンディキャップにめげず、ヒトラーのナチ空軍を撃退したかがこの映画において、パナビジョン、テクニカラーで再現される。
ハリー・サルツマンの製作によるこの史上空前のスケールを誇る一大叙事詩は、3月10日にスペインで撮影が開始された。S・B・フィズが共同製作者、ガイ・ハミルトンが監督、アカデミー賞を二度受けたフレディ・ヤングが撮影を担当している。この映画の主人公はストーリーそのものと一人の男1936年から1940年まで、英空軍・戦闘機軍団長、空軍大将だったヒュー・ダウディングである。サルツマンは映画化に当り3年の月日をかけた。最も難題だったのは空軍を作ることだった。当時の本物の飛行機を百機以上持つようになった彼は世界でも有数の空軍を持つ人間になった。
霧に包まれたスペインのタブラダの飛行場にナチ空軍が再現した。27機のハインケルと27機のメッサーシュミットが1940年の如く勢ぞろいしたのだ。スペイン空軍のパイロットがこれらの戦闘機に乗り込み、空中戦を演じた。
ナチ空軍大佐には四人のテキサス人が扮しているが、彼らは一年以上も前に選ばれ、この映画のために編隊飛行の練習を積んだ。彼らは名誉大佐の称号を貰っている。
1940年の戦闘でのヒロイン、スピットファイアとハリケーンは、ベッドフォードシャのヘンロウ空軍基地で修理された。ヘンロウの格納庫の中に23機のスピットファイアが並んだ。その他ハリケーンが2機、スツーカ急降下爆撃機に改装されたプロクターが2機、本物のユンカース87、ユンカース88、ハインケル111、メッサーシュミット109の各1機ずつが、この英空軍の有名な技術訓練センターのヘンロウに勢ぞろいした。今日ユンカース87はこれ以外にはハンブルグ・ミュージアムに後1機あるだけである。英国の国際スター達は皆この映画に出演したかったが、スペインではドイツ人役だけしかなかった。
H・リースのゲーリング、P・フローベスのミルヒ、ハーゲルのケッセルリンク、W・ハルニッシユのフィンクなどであるが、これら世界的に有名なナチ要人を演ずるのに、非常な困難が伴ったのはいうまでもない。この他、英国防省、空軍省などの再現にあたり厳密な時代考証がなされた。
この戦いの現存する英雄達、航空中佐のロバート・スタンフォード=タックやナチ空軍のアドルフ・ガーラントらはこの映画にいろいろと助言した。
スタンフォード=タックは現在まつたけの栽培をやり、ガーラントは航空コンサルタントをしている。二人でよくドイツ、ハンガリー、イギリスで狩をするそうである。
戦争は二人を敵とするよりも友達にしてしまった。
戦闘で二人が初めて会ったのは、スタンフォード=タックが撃墜され、ドイツでガーラントの訊問を受けた時だった。そして次にガーラントが英国に捕えられ、スタンフォード=タックが訊問したのだった。
戦後二人はもう一度会い親友となった。
空中撮影は計画的な撮影方法だった。改装したB25爆撃機の機内の四台のカメラと、爆撃投下口からぶら下げられて、360度回転が可能なカメラ一台とにより行われた。空中撮影監督は天測ドームに坐り、同行機とカメラに無線とテレビで司令を送るというものである。4万人が死んだ、ドイツ軍の電撃空襲も忠実に再現された。何百人もの美術家、技術者、職人が、この再現に力を尽くした。

[プロダクション・ノート]

タブラダの基地の格納庫には十機の模型飛行機が用意されている。外の滑走路にはこの十機の本物が並んでいる。中の九機はハインケルの爆撃機で一機はB25である。
スペイン空軍のパイロットはこの模型を使っての飛行説明に聞き入っている。通訳つきで、言葉の違いにもかかわらず、撮影側とスペイン・パイロットとはうまくいっているようだ。説明は15分で終る。本物の飛行機が撮影のために離陸していく。
セビリアから300マイルほど北のサン・セバスチャンは、この映画のため町の一部に灯火管制をしいた。これはこの町が1940年代のベルリンによく似ているためで、ここで、ロンドン爆撃のきっかけとなった英国のベルリン空襲が撮影された。
ベスト・セラー作家で日本の今上天皇や、ハイル・シェラシェ皇帝についての著述をものにしているレナード・モーズレイはこの映画制作に関する本を書くために撮影隊について歩いた。
彼は1940年代に新聞記者として、この戦いをドーバー海峡のシェークスピア・クリフで見たからである。彼に云わせれば、このスピットファイアとメッサーシュミットの空中戦はまるでゲームのように見えたそうだ。但し本当に生死を賭けた。
タブラダの基地は全く忙しくて、複雑で、文字通り、戦争さながらであった。
例えば空中撮影隊が上空で撮影している一方で、別の撮影隊はドイツ軍のエース達の室内シーンを撮り、滑走路では、ドイツ軍パイロットが出撃で愛機に走って行く所を撮るという具合であった。
これ以上更に忙しくなるのは、通信と運送の問題、明日の撮影プランを作っていくことなどであるが、彼らもこの戦争で勝利を収めることができたそうだったから士気は盛んだった。
時代考証の方も厳密を極めた。将校クラブの灰皿の形、ドイツ軍兵士のボタン、そして、ドイツのボンにある古記録保管所でたくさんの資料を調べた。ドイツのオーソリティの全面的協力も受けた。最も難しかったのは、1940年代のドイツ人の普段の生活を知ることであった。
スペインのプンタ・ウンブリアには墓まで作った。普通の墓ではない。つばさのついた墓である。爆撃機を護衛していったドイツ軍戦闘機は、たいてい、空中戦の最中に燃料不足になった。後十分という所で赤ランプがつくようになっていた。そしてその十分で22マイルの海峡を飛んで帰るのだ。無事に帰った戦闘機、砂浜に墜落した戦闘機。そしてこういう戦闘機はそのまま墓となった。

■2年がかりで飛行機集める

ロケ地のイギリスは初夏だというのに冬のような気候。ロンドンから約120キロ北のロヶ地ノースウィールドの飛行場は荒天続きで撮影が4日間もストップ。なにしろ大所帯なので、何もしないでも一日約300万円が消えていく勘定だ。この飛行場は、大戦当時、実際に大爆撃をうけた歴史的なところ。現在も英空軍の基地なのだがこの大作のため、英空軍あげての協力体制がとられていた。広い飛行場には、ずらりとスピットファイヤー機が並んでいる。独軍と戦った本物ばかりである。なかには新しくこの撮影のために造られたものもあったが、それらは爆撃シーンで本当に爆破してしまった。こうした本物の戦闘機集めには大変な苦心が払われだということが、当時パイロットとして活躍していた人たちが2年がかりで英国各地から集めてきたという。
独軍側のメッサーシュミット機にいたっては、スペイン空軍が保有していたものをごっそり買い込みスペイン空軍は、その金でジェット戦闘機を新調したというのだから話は大きい。曇天のためスケジュールを変更して接写撮影が行なわれた。

■英、独、西空軍が全面的な協力!

今年5月まで、半年がかりで行なわれた、クライマックスの一つドイツ軍の空港爆撃シーン撮影では、テレビモニターやトランシーバーなどの連絡網を駆使しての科学的なロケーションにもかかわらず、連日負傷者が続出した。
英空軍は、この負傷者のため、空軍病院の看護婦を派遣、野戦病院を設置、ロケの行なわれたラプラタ飛行場(スペイン)などは、さながら実戦の雰囲気。
従来のものと違い、第二次世界大戦の史実を忠実に再現する映画とあって、英国政府はもちろん、英国側から、ドイツ側から、スペイン側からの、当時の記録にもとずいた撮影には、それぞれ各国空軍の全面的な協力を得、かつて例を見ない、大スケールの戦争巨篇となった。