[プロダクション・ノート]
■第2次世界大戦を描いた多くの映画がヨーロッパやアメリカでつくられたが、それらは厖大な製作費を投じ多額のスターをならべ、戦争を言葉や映像だけによってしか知らない若い世代に、単なる興味本位のスペクタクル映画として提供してきた。歴史的な真実を歪めてしまった、と批判するソ連はこの「ヨーロッパの解放」を歴史的事実の再現という立場から描こうとし、“そこで何が起きたか”を正直に客観的になんらの色づけなしに心がけたという。
そのため、この映画で描かれる歴史的なエピソード、ビスラ河とオーデル河の渡河大作戦、ベルリンの嵐、死の収容所の捕虜たちの勇敢な抵抗、テヘラン会談、ヒットラー暗殺未遂、ムッソリーニの救出……など、どれもその事件が実際に起きた場所で撮影された。
例えば、ヒットラーの総司令部があったベルリン、ローマ、ワルシャワ、南プロシャなどは、軍事顧問のフォン・ビッツレーベン大佐がようやく手に入れたナチ秘密建築物の要塞設計図によって復元された。これらの現実の場所のひとつなどは、80を数える巨大な掩蔽壕が構築されていたが、戦後そのすべてが爆破され尽していたので、その一部を忠実に再現するため何百人もの労働者が動員された
のである。
ロケ地ベルリンではこの撮影のため東ドイツ自治当局などは当然それ以前に撤去されるはずであった廃嘘をとりこわさないで、協力したということもあって、数多くのりアルなシーンの撮影に成功することが出来たのである。そこで撮影されたのはヒットラーと恋人エバ・ブラウンの燃える死体のシーンほかで、撮影は68年5〜6月の間に行なわれた。
ロケ地はパルチザンの戦闘シーンを撮ったユーゴスラビアの山中をはじめフランス、イタリア、ドイツ、ポーランド、東欧一帯の大陸のあらゆる地点で行なわれたのである。
■撮影に参加した人びとにある感銘を与えたのはチャールズ・チャップリンだった。彼は1942年のサンフランシスコのある映画人の集
まりで、こう言った。「大変に勇敢かつ堅固に祖国を守り抜いたロシア人はほとんど聖者に等しい。神に近いと言いたい。また、いまはこの戦争での主役は連合軍であるように思われているが、実際はソ連軍が真の主役だといって言いだろう──」
撮影スタッフはこのチャップリンの言葉を裏付けるようにいうのだ。米英連合軍がノルマンジーの上陸作戦に成功したとき、ソ連は東欧を支配していたドイツ中央軍団を敗走させ、14名の将軍をふくむ5万6千人の兵士を捕虜にして、ヒットラーが連合軍を海へ押し返えず力を奪い去っていたのだと。
撮影監督のイーゴリ・スラブネビッチなどはこうした歴史的事実を強く訴えるため撮影についての妥協を一切排している。例えば、助手のキャメラマンに炎上する戦車の上にキャメラをすえさせたり、ヘリコプターのハッチにキャメラを宙吊にして撮影を続けさせたりしたことは再三であった。 “すべてリアリズムてやろう”という製作方針を彼は助手たちに体で示すことを要求したのである。
■撮影には鬼大な量の軍用装備、武器、火薬を必要としたが、当時最強を誇ったタイガー戦車100台とフェルディナンド自走砲50台がモスフイルムの注文で新らたに工場生産され、ドイツの戦闘機メッサーシュミット45機がソ連の旧戦闘機LAK(ラーク)を改造して製作された。戦闘シーンの撮影に当っては40米の低空で空中戦が行なわれるので、プロ飛行士が多数集められ、危険きわまりない空中戦が撮影された。 |