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シンドラーのリスト1994年2月26日発行発行所:東宝 出版・商品事業部 定価400円 A4版24P |
[解説]■何故、今、この映画なのか? -スピルバーグは語る-『ジュラシック・パーク』の大成功の直後に、新作のテーマとしてホロコーストを選んだ訳は? それは、「私自身がユダヤ系だからだ」と、監督スピルバーグは語り始める。事実、彼の親戚の中には、ナチスの収容所で命を落とした人たちもいる。彼が3歳の頃、祖母の家にヨーロッパからの移民のグループが定期的に英語を習いに来ていた。幼いスピルバーグは、「彼らの腕に刻まれた数字で数を覚えたんだ」という。こうして収容所番号を示すその入れ墨から数字を覚えながら、彼はまた自分がユダヤの血を引く人間であることを初めて認識していったのだ。だが、彼は、若かった頃の自分はその血筋を心のどこかで恥じ、過剰に意識し、当惑していたと告白している。「こうして、ユダヤ系であることが、自分の財産と思える日が来るとは夢にも思わなかったよ」。スピルバーグが、トーマス・キニーリー著の「シンドラーズ・リスト」を知ったのは、1982年、『E.T.』が世界的大ヒットを収めてまもなくの頃だった。この小説の中で語られている過酷な“真実”に釘付けになったスピルバーグは、その時点ですぐ映画化権を取得。そして10年。映画化までにこれだけの月日がかかった理由について、彼は、「このテーマに対して、当時の私では未熟すぎたから」だと言う。「人の子の親になり、その責任感が自分自身を大人にしたと思う」とこの10年の歳月の重みを語るスピルバーグ。そして、ハリウッドで数々の成功を収めてきた今、ようやくこの作品に着手するだけの確たる自信を得、自分の体内に流れる血筋を何の臆面もなく口にすることができるようになったといえるだろう。「今でも地球のどこかで同じようなことが繰り返されている。どうして人間は、歴史から教訓を読み取れないのだろう」。そう語る彼の瞳に深い悲しみの色が走る。 そして、今回は監督料も返上で製作に取り組み、作品に寄せられる批評も人気も全く気にしていないという。「ナチス統治下で600万人のユダヤ人の身に降りかかった運命を思えば、映画監督一人の名声など取るに足りないものだ」と、スピルバーグは言葉を結んだ。 ■原作はこうして書かれた1980年、オーストラリアの作家卜一マス・キニーリーは、アメリカ旅行の途中、カリフォルニア州ビバリー・ヒルズのとあるかばん屋を訪れた。そして、その店の主人レオポルト・ペファーベルクから、オスカー・シンドラーという男の名を初めて聞かされた。何を隠そう、現在80歳のこのペファーベルク自身が、ボーランドの元陸軍中隊長であり、“シンドラーのりスト”に載ってアウシュビッツから奇跡の生還を遂げたいわゆる“シンドラーの生き残り組”の一人だったのだ。偶然耳にするにはあまりにも衝撃的なその話に、キニーリーはこれを小説の形で書き上げることを決意。そして、ペファーベルクの協力を得て、オーストリア、イスラエル、旧西ドイツ、アメリカ合衆国、ブラジルと、世界に散らばって今も生き続けている当事者約50人にインタビューを試みた。彼のインタビューに答えてくれたのは、シンドラーに逃してもらった人たちばかりでなく、あの戦時下では神業に近かった彼の行動を間近かで目撃していた人たちもいた。また、手紙や記録文書を提供してくれる者もあった。さらに、キニーリーは、シンドラーが移り住んだポーランドのクラクフ、彼の工場が今も残るザブロツィェのリポヴァ通り、アーモン・ゲートが君臨した強制労働収容所のあったプワシュフ、そして最も忌まわしい出来事の現場アウシュビッツを自分の足でたどった。そして、シンドラー程の人物につきまといがちな“伝説”的要素を排除するように努め、できるかぎり事実に忠実に「シンドラーのリスト」を書き上げた。この作品は、82年のフッカー賞を受賞している。尚、イギリスでは、「シンドラーの箱船」というタイトルで上梓されている。 第二次世界大戦下のポーランド。人間が人間らしく生きられなかった時代に、人間としての絶対的な誇りと良心にかけて、1000人を超すユダヤ人をナチの手から救い出したドイツ人がいた。しかも、たった一人の力で……。82年、『E.T.』で樹立した映画史上最高の興行記録を、93年、自らの『ジュラシック・パーク』で打ち破ったばかりのスティーブン・スピルバーグ。その彼が、構想10年。この実話を世界の人々に知らしめたいという一心から、精魂込め、採算を度外視し、監督料を返上してまで製作・監督に踏み切った『シンドラーのリスト』。 この作品は、12月の公開と同時に全米の話題をさらい、すでにアメリカにおける3大映画批評家協会賞(ロサンゼルス批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞、全米批評家協会費)の作品質をほしいままにし、目下、スピルバーグ初のアカデミー賞作品賞に向かって邁道中である。 真実を伝えるためのドキュメンタリー・タッチ、真実を美化しないためのモノクロ・フィルム、そして真実の現場ポーランド・ロケ。スピルバーグはただ真実を真実として、ここに再現したのである。したがってこの作品には、『E.T.』のようなファンタジーも、『ジュラシック・パーク』で世界を驚嘆させたSFXも、『インディ・ジョーンズ』シリーズのようなアドベンチャーもない。いわゆるスピルバーグらしさは何もないと言っていい。彼は、スクリーンを通じず切々と訴えかける。この出来事を、こんな男が実在したことを、歴史という名の厚い壁の中に塗り込めてはならない。忘れ去ってはならないと。原作はオーストラリアの作家トーマス・キニーリーのノンフェクション小説。82年のブッカー賞を受賞している。 その男。オスカー・シンドラーは、決して聖人君子でもなければモラリストでもなかった。多額の賄賂でナチス要員をたらし込んだ抜け目のない事業家。女とコニャックに酔いしれ、メルセデスを駆ける道楽者。しかし、彼の体内には、虐げられる者たちへの、弱き者たちへの限りない愛と慈しみ、人間としての確とした正義が宿っていた。ナチス党員であったシンドラーは、ドイツ軍の侵攻の尻馬に乗った形でポーランドの都市クラクフへやって来てひと旗揚げ、軍のおかげでボロ儲けをしている人間でもあった。だが、日を追ってエスカレートしていくユダヤ人への迫害、残虐行為を目のあたりにした彼は、次の自分の行動を人間としての模範に則って決定する。皮肉にもナチスに儲けさせてもらった莫大な金を、ユダヤ人を救うことにつぎ込み始めるシンドラー。やがて、死に至る労働に明け暮れる強制収容所のユダヤ人たちの間でシンドラーの名が囁かれ始める。ある“リスト”に載って、彼の新しい軍需工場に移されることだけが、彼らにとって唯一生き残れる道だったから……。1200人のユダヤ人の名を連ねたその“シンドラーのリスト”は、いわば未曾有の大脱出の正式記録なのである。 主役のオスカー・シンドラーには『ダークマン』の怪人役で注目を集め、『夫たち、妻たち』にも出演していたリーアム・ニーソン。彼をサポートするユダヤ人会計士イツァーク・シュルテンには『ガンジー』でアカデミー賞主演男優賞を獲得した他、『スニーカーズ』『ボビー・フィッシャーを探して』などで活躍のベン・キングスレー。残忍な収容所所長アーモン・ゲートには、92年版『嵐が丘』でヒースクリフを演じたラルフ・ファインズ。シンドラーの妻エミーリェには、『フック』でピーター・パンの妻役を演じていたキャロライン・グッドール。その他、イギリス、ポーランド、イスラエル、クロアチアからの混成キャスト。 今回、スピルバーグとともに制作に当たったのは、『ジュラシック・パーク』でも共同製作の大役を果たしたジェラルド・R・モーリンと、『ソフィーの選択』のプロダクション・デザイナーを務めたブランコ・ラスティング。旧ユーゴスラビア出身のラスティングは、実際に子供の頃の3年間をアウシュビッツの収容所で過ごした経験を持つ。脚色は、『レナードの朝』のスティーブン・ザイリアン。そして音楽はジョン・ウィリアムス。ミミ・トーマの「Mamatschi(Mommy Buy Me a Pony)」やビリー・ホリデーの「God Bless The Child」などを効かせながら、クライマックスへと緊張感と感動を高揚させていく腕は、さすが『屋根の上のバイオリン弾き』『ジョーズ』『スター・ウォーズ』『E.T.』で4つのオスカー像を手にしたスクリーン・ミュージックの巨匠とうならせる。また撮影は30,000人のエキストラを動員してポーランドのクラクフで開始された。広大な市場、狭い路地、古いゲットー、かつてシンドラーのホーロー向上のあったリポヴァ通り等がそのまま使われた。 |
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[プロダクション・ノート]■難航した脚本化作業最初の脚本は、原作者のトーマス・キニーリー自身によって書かれた。しかし、それは、スピルバーグを満足させるような出来栄えとはならなかった。「原作者は、自分の小説から何か別のものを生み出そうとあくせくして、もとの良さを損ねてしまうきらいがある」とスピルバーグが言う。『ジョーズ』の時のピーター・ベンチュリーや『ジュラシック・パーク』のマイケル・クライトンにも、そういう傾向があった。次の候補者は、ジャーナリスト出身で、『悪意の不在』や『愛と哀しみの果て』の脚本を手がけたカート・リュードックだった。だが、彼は何と4年間もこの作品と悪戦苦闘した結果、はじめの30ぺ一ジしか書き切れなかったのだ。リュードックにとっては、自分がドイツ人であることも精神的なネックになってしまったようだ。そして、ついにギブ・アップした彼に代わっての登板はスティーブン・ザイリアンだ。彼は、『レナードの朝』で示した“真実を描き出す手腕”を今回も存分に発揮。紆余曲折の末ではあったが、こうしてスピルバーグの納得できる脚本が誕生した。 ■歴史の生き証人たちキニーリーの創作意欲を刺激し、資料集めに尽力したビバリー・ヒルズのかばん屋ことレオポルト・ペファーベルクは、今回の映画化に際してもスピルバーグとともにポーランド入りし、撮影現場に立ち会って多大な貢献をした。ペファーベルクは、「生き残った者は単なる生存者ではなく、歴史の証人になるべきだ」と語っている。他にも“生存者”の中の有志が次々にロケ現場に顔を見せ、“真実”の再現に力を尽した。こんなシーンがある。シンドラーがドイツ人の愛人イングリートと馬を駆る途中、ポドルツェのゲットーを見下ろす丘の上で足を止める。警察が人々を包囲し、男の子が射殺されると、そばに立っていた赤いコートの女の子が、予想に反してそろりそろりとその場を離れて脱走する。それをじっと見つめているシンドラー。これは、スピルバーグが原作の中で最も圧倒されたシーンだという。「この瞬間には、シンドラーが容認することのできない残虐的行為のすべてが含まれているから」とスピルバーグ。この少女の服だけを淡いパートカラーにしたのもそのため。それだけに、このシーンの撮影には力がこもる。スピルバーグは、クラクフ入りする前に当のイングリートを訪ね、このシーンを克明に語ってもらった。彼女もその後、“シンドラーの生き残り組”の一人と結婚し、現在ニューヨークに住んでいる。 また、ある日、ホーロー工場の撮影現場を、ニュージア・ホロヴィッツという女性が訪ねてきた。彼女は10歳の頃、プラゾフからアウシュビッツに送られ、その2か月後にシンドラーの工場に召集され終戦まで過ごした。彼女は、シンドラーの誕生日にケーキを持って進み出た少女だったのだ。 その時、彼は、ナチス親衛隊の目の前にもかかわらず、もう一人の年長のユダヤ人少女にキスをする。その日は、ちょうどその場面を撮影中で、この話がハリウッドの資本で映画化されることに、当初は抵抗を覚えないでもなかったが、現に目の前に繰り広げられているシーンに目を見張った。「ここで演じられていることは、まるで3日前の出来事のような気がする」と、ニュージアは流れ落ちる涙をこらえようもなかった。 |
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