プライベート・ライアンの夢 ジャスティン・イライアス ‐ US Magazine
(翻訳:ジェイさん)
この夏、全米の映画館の何千ものスクリーンに、戦場の男達の映像が、催眠術的な効果を伴って映し出されるとき、観衆は、誇らしい、しかし痛ましい一つの歴史上の出来事にタイム・スリップするだろう。第二次世界大戦の転機となった、ナチ占領下のフランスに対する、D-Day上陸作戦である。 Saving Private Ryanで、映画監督のスティーブン・スピルバーグは、4人兄弟のうちの3人までが戦死した後の最後の一人、落下傘兵ジェームズ・ライアン(マット・デモン)を探しに、一人の歴戦の大尉(トム・ハンクス)の指揮の下、敵地の奥深くに侵入する、陸軍の8人の兵士の分隊の物語を語っている。
すでに多くの人が証言しているように、Saving Private Ryanは、ハリウッドとしては稀な、近代戦の恐怖に真正面から取り組んだ作品である。スピルバーグが、歴史家のスティーブン・E.・アンブローズ(Citizen Soldiersの著者)のためにこの映画の試写を行なったとき、アンブローズは、予想外に激しい反応を示した。敵の銃火のもとで、何千もの連合軍の兵士達が死んだオマハ・ビーチを描いた最初の戦闘シーンを見終わった時点で、アンブローズは、映写技師に、気持ちが立ち直るまで、上映を中断して欲しいと頼んだのである。
Saving Private Ryanは、フィクションである。しかし、それは、実在する人々と、今も続く彼等の深い悲しみに基いた物語だ。アイオワ州、シーダー・フォールズに住む、27歳の教員、ケリー・サリバン・ローレンは、この悲しみを身に沁みて知っている。幼い頃から、彼女は、第二次世界大戦にまつわる、彼女の家族の物語を聞いて育ってきた。「両親が、いつあの話を私に聞かせたのかは、思い出せないんです。」 ローレンは語る。細身で、赤毛の女性だ。「でも、いつも分かっていました。」自宅の居間。彼女の夫で、建設業に従事するケビンと、1歳の娘のケルシーが一緒に居る。周りには、サリバン兄弟にまつわるものが数多く並んでいる。写真、歴史の本、額に入った、海軍の提督からの手紙。彼女の後ろの壁には、彼女の祖父であるアルバート・サリバンと、彼の兄弟達、ジョージ、フランシス、ジョセフ、そしてマディソンが写った、古い志願兵募集のポスターが掛かっている。サリバン兄弟は、当時、20歳から27歳。1941年の12月、全員、海軍に入隊した。彼等は、周囲の人々の反対を押し切って、全員が同じ船に勤務したいと主張した。1942年の11月13日、ガダルカナル攻防戦の最中、彼等の乗った船、USSジュノーは、日本軍の潜水艦が放った魚雷の直撃を受けた。
戦時中のこと、ニュースが伝わるのは遅かった。2ヶ月後、サリバン兄弟の母親で、ローレンの祖母でもあるアレタが、朝、目を覚ますと、アイオワ州ウォータールーの自宅の居間が、家族と、3人の海軍の将校で一杯になっていた。サリバン夫人が居間に入ってくると、3人の将校は立ち上がった。「ご子息達のことで、お伝えしなければならないことがあります。」将校の一人が話し始めた。兄弟達の父親、トーマス・サリバンが尋ねた。「どの子ですか?」 答え:「全員です。」
後になって分かったことだが、5人兄弟のうち、4人は、他の550人の乗組員と共に、魚雷が命中したときに即死したが、長男のジョージは、最初の爆発が起こったときに、140人の生存者と共に海に投げ出された。1週間以上経って、救助隊が到着したときには、救命いかだや残骸の上に乗って生き残っていたのは、10人だけだった。他の者達は、力尽きたか、鮫の餌食になって、皆死んでいた。ジョージは、4日の間、他の兄弟達の名を呼び続けていたが、その後正気を失い、鮫で一杯の海に泳ぎ出していった。
サリバン兄弟の悲劇は、たちまち、犠牲の真の意味を最も酷い形で示す物語として、全米のマスコミによって大々的に取り上げられた。「あなたとあなたのご主人は、偉大な勇気というものについて、全ての国民に教訓を与えてくれました。」ファースト・レディー、エレノア・ルーズベルトは、両親に宛てた追悼の手紙にこう書いている。この手紙は、後に、新聞で公表された。ウォータールーでは、遺族達が、それぞれ異なった形で、この悲しみとショックと戦っていた。アレタ・サリバンは、懸命に、息子達の死は無駄ではなかったと信じようとした。数え切れないほど多くのインタビューに応じ、海軍の、戦時国債の販売に協力した。彼女の夫は、努めて雄々しく振る舞い、妻と共に何度も公衆の前に現われたが、私生活では、酒に浸っていった。長女のジュヌビエーブは、当時26歳だったが、終戦まで、海軍の広報活動を行なった。 ただ、アルバート・サリバンの若い未亡人キャスリーンだけは、世間との交渉を断ち、孤独を維持した。彼女は、数年後再婚したが、二番目の夫の感情を配慮して、インタビューに応じることは無かった。
サリバン兄弟の物語には、公衆を啓発する力があることを知った海軍は、1943年、駆逐艦の一隻を、「USS The Sullivans」と命名し、アレタ・サリバンに、命名式への出席を依頼した。兄弟の一生は、 1944年、「The Sullivans」という題名で、映画化されている。(この映画は、「The Fighting Sullivans」という題名でも知られている。)これらのメディア・ハイプは、サリバン兄弟の遺族達が、悲しみを忘れる助けとなった。「でも、」と、ローレンは語る。「… 誰も本当に悲しみを乗り越えることはできませんでした。世間の騒ぎが終わったときから、本当に辛いときがやってきました。そして、失ったものの大きさを悟り始めたのです。」
ローレンが最初に映画「The Sullivans」を観たのは、6歳のときだった。「私達は、ニューヨーク州のバッファローに、サリバンの名が付けられた船を見に行ったんです。」彼女は回想する。「… そのとき、地元の、とても綺麗な古い劇場で、映画の上映会が開かれたんです。驚きました。こんなに沢山の人達が、本当に、私の父や、祖父や、祖母や、曾祖父や、曾祖母を演じているということが、とにかく、信じられませんでした。私は泣きました。今も、あの映画を観ます。そして、毎年、私が担任する3年生の生徒達にも映画を見せて、物語を説明しています。」
Saving Private Ryanには、サリバン兄弟の名前が、一度だけ出てくる。それは、陸軍が、国民の戦意を高揚するために、ライアン兄弟の最後の生き残りを救出することを計画するシーンだ。このシーンから後、映画は、ニューヨーク州トナワンダの、ニーランド(Niland)兄弟の経験に基づいて物語を展開してゆく。彼等の両親は、1944年の夏、二人の息子、プレストンとロバートが、D-Dayに戦死し、長男のエドワードは、太平洋戦線で行方不明になり、戦死の可能性が強いということを知らされた。一方、このとき、ニーランド兄弟の末っ子で、空挺隊員のフレデリックは、北フランスのどこかで戦っていた。陸軍は、直ちに救出隊を編成し、フレデリックを探し出し、合衆国に送り返して、兵役が満了するまで、国内勤務とした。それから1年近く経ったとき、家族は、戦死と思われていたエドワードは、乗っていた飛行機がビルマで撃墜されたものの、生存しており、日本軍の捕虜収容所に居るという知らせを受けた。「彼は、飛行機から脱出した最後の一人だったんです。」エドワードの未亡人、ダイアン・ソラーズは語る。「落下傘で降下した後、彼は、3日間ジャングルをさまよい、最後に捕虜になったんです。」ソラーズによると、彼女の夫は、収容所でのことについて、殆ど語ることは無かったそうである。
映画脚本家のロバート・ロダットは、D-Day50周年を記念して出版された何冊かの本を読んだ直後から、Saving Private Ryanの脚本の執筆にとりかかった。戦争中の犠牲者について書いてみようという発想は、彼が、出身地のニューハンプシャーの町で、一つの記念碑を見たときに一層深まった。その記念碑に刻まれた名前の多くは、一緒に戦い、戦死した、兄弟達のものだった。
これまでの作品の半数近くが、1930年代か40年代に舞台を設定したものであるスピルバーグにとって、この映画は、一つの大きな疑問を投げかけるものだった。「戦争の地獄の中で、人はいかにして良識を見出すのか?」という疑問である。
真実性を追求するためには、第一級のキャストを選ぶことが絶対に必要だった。ハンクスとデモンに加えて、分隊所属の軍曹にトム・サイズモア、戦闘経験の無い通訳にジェレミー・デイビス、皮肉屋の一等兵にエドワード・バーンズが出演することになった。
英国での撮影が開始される前に、主だった役を演じる俳優達は、全員、元海兵隊大尉で、この映画の軍事アドバイザーを務める、デール・ダイの指揮のもとで、6日間の苛酷な訓練を受けた。ベトナム戦争で、3つのパープル・ハート勲章を授与されたダイは、オリバー・ストーンの1986年の作品、「プラトゥーン」の技術アドバイザーを皮切りに、映画の世界に足を踏み入れた。「歩兵にあるのは、ライフルと銃剣くらいなものだ。他には何も無い。」ダイは語る。「歩兵は、面と向かって敵に立ち向かわなければならない。 特にノルマンディーは、人間を挽肉機にかけるような惨状だった。戦術よりも、生存が先決だった。この映画では、俳優達に、どうやって自立性を叩き込むかというのが、第一の課題だった。1940年代の人達は、皆、自立性を持っていたからだ。当時、人生は甘いものではなかった。」俳優達の多くは、ブーツ・キャンプ(新兵訓練)が、肉体的、感情的に、どれほど厳しいものかを理解していなかった。不順な天候のもと、地べたに眠り、タフな上官から、常に言葉の暴力を受けなければならない。ダイは、有名無名に関係無く、全ての俳優達を、「turd」(糞)と怒鳴りつけた。
「ダイはね、手首に糸を何本も巻き付けているんだよ。その一本一本が、彼の指揮の下で戦死した兵隊なんだ。」歩兵の一人を演じるヴィン・ディーセルは語る。「ブーツ・キャンプの最後の日に、彼は言った。“ 君達は、私に、死んだ者達に報いるチャンスを与えてくれるんだ。 - - - 君達は、彼等の命の償いをするんだ。”みんな、涙を流したよ。誰かが、あんなに率直に胸を開いて本心を語れば、誰だって真剣になる。」
歴史家のアンブローズは、完成した映画を観て、深く感動した。「真実と映画の両方が激しく胸を打った。」彼は語る。「余りにも多くの負傷者達。迫撃砲で内臓をえぐり取られる者。物凄い苦痛のうちに死ぬ者。誰もが、母親を、水を、モルヒネを求めて泣き叫ぶ。オマハ・ビーチを映画で再現し得る人間が本当に居るなどとは、夢にも思わなかったよ。実際にあそこに居た男達は、これを見て、目を覆うだろう。」
こうした反応を示したのは、アンブローズだけではない。俳優達も、この経験がどうしても頭から離れないと述懐している。去年の秋、映画の撮影が終わってからのことだ。バーンズは、オマハ・ビーチの近くの、第二次大戦戦没者の墓地を訪れた。そこには、117,153人の兵士が埋葬されている。そのうちの、14,000人近くはアメリカ兵なのだ。 「僕はもともと、感情的な人間ではないんだよ。」彼は語る。「でも、あの映画は、僕に、深い影響を与えた。- - - そうして、あの、余りにも多くの墓を見たとき - - - 彼等は、5つから8つは、僕よりも若かったんだ。みんな、恐ろしい死に方をした。僕らの世代とは別の男達だったんだね。」
墓地内の小さな教会に入ったとき、彼は、号泣した。自分を抑えることができなかった。「背骨を、冷たいものが走った。」彼は回想する。「今だに、自分に何が起こっていたのか、分からない。僕の年代の連中 − 一般化して言うのはどうかとも思うけれど、多分間違い無い − 僕達は皆、大人になりきらないまま生きているんだ。しかし、彼等は、強制的に大人にならされた。きっと、真っ正面から、顔を、思いっきりぶん殴られたような気がしただろう。」
サリバン兄弟が南洋の海で死んでから、50年以上の歳月が流れた。アイオワ州のウォータールーは、広大なトウモロコシ畑の中に孤立した農村から、小さいけれども活気に溢れる町に成長した。サリバン兄弟の名は、現在、町の役場と、彼等が幼い頃を過ごした家の跡地に作られた小さな公園に残っている。ダウンタウンの周辺は、今も、1940年代と同じように、ブルーカラーの、白人と黒人が混在する一画として残っている。しかし、町は変った。ある朝早く、サリバン・パークを訪れたときのことである。ローレンは、何人かの若い男達が、彼女の祖父と彼の兄弟達の記念碑の近くで、麻薬の取り引きをしているのを目にした。
ローレン、彼女の父親のジェームズ、兄のジョンと二人の従兄弟達(ジュヌビエーブ・サリバンの息子達である)は、今も、サリバン家の歴史を世に伝える活動を続けている。毎年、何百もの追悼と励ましの手紙、電話、そして電子メールのメッセージが家族のもとに届く。世間の関心は、潮のように、とどまる気配を見せない。もしも、Saving Private Ryanが、サリバン兄弟の物語を、今よりも一層広げることになったとしても、それはそれで良いと家族は考えている。「私達が今、自由でいられるのは、過去の人達がしてくれたことのお陰です。」ローレンは言う。「私達は、そのことに感謝しなくてはならないと思うんです。」
[戻る]