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PRODUCTION NOTES

スピルバーグとハンクスが魅せられた“壮大な人間ドラマ”

「戦時の極限状態で、人間らしさなんてどうやったら見出せるだろうか?この企画に最初に魅かれたのはまさにこの逆説だ」とスピルバーグは言う。このシナリオが生まれたきっかけは、脚本家ロバート・ロダットの4年前の体験にさかのぼる。当時、Dデイ(ノルマンディ上陸作戦決行日)が50周年を迎え、ロダットに第2子が誕生した。「Dデイに関する本をよく読み、子供を連れての早朝の散歩が日課だったある日。町(ニューハンプシャー)の広場に夥しい名前が刻まれた記念碑が目に入った。独立戦争以来のすべての戦争で町が出した戦死者だ。そこには同じ性がいくつもあった。兄弟で戦死しているのだ。息子一人を亡くすだけでも心が痛む。それを二人、三人と亡くすとは、どういう気持ちだったのか」
ミューチュアル・フィルムのマーク・ゴードン、ゲイリー・レビンソンが加わって脚本が進展し、話は主役にイメージしていたトム・ハンクスのもとへ持ち込まれた。「第二次世界大戦は以前から関心があったテーマ」とハンクスは言う。「戦争そのものではなく、人間の体験として描いたような素材はないか、と。この脚本にはそれが鮮やかに書き込まれていた。ある意味で壮大なアドベンチャー・ストーリーであり、一方ではとても人間的なドラマなんだ」
脚本は同時にスピルバーグにも渡った。「私が監督した作品のほぼ半分近くが30年代〜40年代の時代背景のストーリー」とスピルバーグ。「十代の時に作った短編“Escape to Nowhere”は、第二次大戦のアクションもの。私自身はテレビで見た戦争ものに大きな影響を受けている」スピルバーグを奮い立たせたもう一つの要因は、友人ハンクスと初のコラボレーションだった。「トムのことはいつも尊敬していた。私に映画がよい方向へ進むようなアドバイスをもたらし、役や演技に対する私の考えに素直に耳を傾けてくれた。一緒に仕事をしたことで尊敬の念は一層増した」

 

地獄の新兵訓練キャンプ

「出演者全員を本物の兵士に変身させる」スピルバーグの意を受けて、俳優たちを体力と忍耐の崖っぷちへ追い込んだのが、退役軍人大尉のデイル・ダイだった。「国のために戦うとはどういうことか。分からせるための方法はこれしかない」と言い切る彼は、本番開始に先立ち、全10日間の基礎訓練キャンプを設計した。「あれは人生最悪の体験だった」とエドワード・バーンズは、体重を4キロ減らした。「80キロ近い装備で雨中の行軍を10キロ。寒さで震えながら携帯口糧をむさぼり、ズタボロ状態で3時間ほどの仮眠にすがる。誰もここまでやるかと感じた」キャンプも4日を過ぎた頃、案の定、ハードな訓練に悲鳴が上がりだした。出演者の大半が映画から降りると騒ぎ出したのだ。「アミスタッド」の編集で現場を離れていたスピルバーグに代わって、ハンクスが説得に乗り出した。彼はダイに“待遇改善”を申し入れ、2回の“投票”を行い、最終的に全員を留まらせることに成功した。反乱を未然に防いだ彼は言う。「あまりにも酷い体験をしたせいで皆が片意地を張ってしまった。疲れ果て、家に帰りたいと思っても前進するしかない。あの日、ノルマンディに上陸した兵士の多くが置かれた状況を、ダイは悪役の汚名を被ることで実感させてくれた」そんなキャンプの騒ぎも知らず、一人遅れて撮影に参加したのがマット・デイモンだ。ストーリーの上で彼のライアンが登場するのは最後の3分の1。まさにドラマを地で行く「劇的再会」になるはずだったが、過酷な訓練をくぐり抜けてチームワークで結ばれた“ミラー部隊”との間には。最初、口では言えない違和感が流れた。「それを解消してくれたのはスピルバーグの存在だった」とデイモンは言う。「スピルバーグは自分が何を必要としているかを常に認識している監督。彼がそれをモノにした時は皆が最高の気分を味わった。いつしか彼に世界に引き込まれ、自分もチームの一員という気になった」

 

完璧に再現された「史上最大の作戦」

連合軍によるノルマンディの5つの上陸地点のうち、ドイツ軍がもっとも頑強に抵抗したのがオマハ・ビーチだ。スピルバーグ自ら“大虐殺”と呼ぶ凄惨な上陸シーンは、ノルマンディに似た地形のアイルランド南東部海岸に再現された。2,000丁の武器が集められ、それを扱う1,000人のエキストラがアイルランド軍から徴用された。彼らの多くはメル・ギブソンの「ブレイブハート」にも参加していたベテランだった。悪天を衝いて海岸線をめざした兵士たちの命綱ともなったのが、“ビギンズ・ボート”の名でも呼ばれている上陸用船艇だ。見つけるのは困難と見られた“時代物”だが、製作のイアン・ブライスが世界中を回り、わずかに残る現物をかき集めるのに成功した。スピルバーグと撮影のヤヌス・カミンスキーは、「シンドラーのリスト」に続いてドキュメンタリーアプローチをめざした。手持ちカメラを多用することで「兵士に密着した従軍カメラマンの視点」が得られ、色彩の彩度を落とすことで「当時のニュースリールの感覚」が生まれた。シャッター速度の切り換えできびきびしたアクション、リアルな爆発シーンが得られたのも名手カミンスキーならではの技だ。「オマハ・ビーチは作戦的には完全な失敗だった」とスピルバーグは言う。「起こったこと、あったことをストレートに容赦なく描くことで、従来のハリウッド式戦争映画とは一線を画す」のが狙いだ。「アクション!」スピルバーグの掛け声と共に、その場は半世紀前の大戦争の現場へとタイムスリップした。「その瞬間、アドレナリンが増量するのを実感した。すべてが偽物だとわかっていても恐かった」とハンクスは告白し、バーンズは「あの日、兵士たちが何を見、何を感じたかがよくわかった」と回想する。Dデイに関する決定的著作で知られる歴史コンサルタントのスティーブ・E・アンブローズは「これまでに見た中で最もリアリスティックな戦争描写」と太鼓判を押している。

 

“史実”としての「プライベート・ライアン」

脚本のロバート・ロダットは言及していないが、「プライベート・ライアン」には物語を越えた厳粛な史実が存在する。ガダルカナル戦役の第三次ソロモン海海戦(1942年)日本軍によって撃沈された米艦ジュノーの乗組員の中に5人の兄弟がいた。“サリヴァンの5人兄弟”として軍のプロパガンダにも一役買った彼らは、4人が艦と共に沈み、一人筏上救助を待ちながら死んだ。国の英雄となった5人の物語はハリウッド映画(The Fighting Sullivans(44))となり、駆逐艦の名前にもなったという。

 

(協力:UIP映画)

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