1943年、ロシア・タマン半島−撤退
映画「戦争のはらわた」の背景
第2次世界大戦中、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連が西部ロシアで空前の規模の死闘を繰り広げた。「戦争のはらわた」の主人公シュタイナーの部隊が闘ったのもこのロシア戦線である。太平洋戦争やヨーロッパの西部戦線と比較してあまり知られていないが、独ソ戦は、未曾有の犠牲者を出した人類史上最大の惨劇であり、第2次世界大戦の帰趨を決定し、戦後の冷戦構造を形作った歴史的な軍事闘争だった。
そして独ソ戦は異常な戦争だった。ロシア西部に住むユダヤ人と共産党員を皆殺しにし、スラブ民族を搾取し尽くし奴隷化してドイツの《レーベンスラウム(生存圏)》を建設する、という悪夢のようなイデオロギーに基づき遂行された狂った戦争だったのである。
独ソ戦をさらに悲惨なものにしたのが、ヒトラー以上に絶対的な権力を持つスターリンの対抗措置だ。スターリンはドイツ軍を阻止するためにあらゆる手段を使い、兵士と民衆に想像を絶する犠牲を強要した。悲惨な例としては、許可なく撤退する兵士の銃殺、捕虜になった兵士の家族を裏切り者として強制収容所にぶち込んだことなどが挙げられる。頑強なソ連軍と民衆の抵抗にドイツは仮借なき攻撃を加えた。パルチザンの破壊活動に対する報復などで無数の村や町が焼かれ、罪のない民衆が虐殺された。そして彼我の情勢が逆転したとき、スターリンはドイツ軍兵士と一般市民に対してだけでなく、ドイツに協力した自国民に対しても徹底的な血の報復を行ったのである。
独ソ戦による死者は、ソ連側が2500万人とも3000万人とも言われ、ドイツ軍側が1000万人以上と言われる。この信じがたい統計は、独ソ戦の狂気がいかにすさまじい規模で吹き荒れたかを端的にあらわしている。
ところで、人々が漠然とイメージする独ソ戦とは「地平線の見える大平原を進撃する装甲部隊」「凍てつく雪と氷の原野をトボトボと撤退する歩兵部隊」「空爆で廃虚と化した街での市外戦」といったものではないだろうか?「戦争のはらわた」の舞台は、そのいずれでもない。緑の森と丘の近くに築かれた塹壕陣地だ。シュタイナーたちは一体、ロシアのどこで闘ったのだろう?
字幕が出ないので、つい見落としてしまうが、印象的なオープニングの途中、英語で「ロシア・タマン半島−1943年 撤退」という文字が出る。地図を見ていただくとよくわかるが、黒海に突き出ているクリミア半島の東の端ケルチに向かって、カフカスから伸びているカニの爪のような半島がある。これがタマン半島で、43年にはドイツの第17軍がカフカスからこの半島に撤退してきていた。シュタイナーたちは、この第17軍に属しているという設定だと考えられる。
物語が描かれている43年の夏は独ソ戦の決定的な転換点であり、ヒトラーの第3帝国が崩壊に向け坂道を転がり落ち始めた時期に当たっている。シュタイナーたちが属していた第17軍を中心に、この前後の東部戦線の状況を大まかに見てみよう。
41年6月、堰を切った濁流のようにソ連へ侵攻したドイツ軍は、北はバルト海沿岸諸国を占領しレニングラードを包囲、南ではキエフを攻略し、ウクライナを席巻。中央ではベラルーシ全土を占領、さらにモスクワに迫った。しかし、秋の泥濘と続く冬の厳寒、そしてソ連の犠牲を顧みない抵抗によって、ドイツの攻勢はモスクワ前面で頓挫する。さらに続くソ連の反攻によって、消耗し切っていたドイツ軍は大打撃を蒙った。
42年夏、冬期戦のダメージで全戦線における攻勢が不可能になったドイツ軍は、兵力を戦線南部に集中し、ドン川とヴォルガ川の間でソ連軍の主力を捕捉、包囲殲滅し、その勢いでカフカスに侵攻、油田地帯を占領する作戦を発動する。1942年の夏期大攻勢「ブラウ《青》作戦」である。
ドイツ軍は戦争初期の電撃戦を思わせる快進撃を続けたものの、ソ連軍がヴォルガ川への戦略的撤退を行なったため「ヴォルガ川の手前でソ連軍の主力を包囲殲滅する」という作戦の第一目標の達成に失敗する。ここでヒトラーは、危険な兵力分散を決意、作戦に当たっていた南方軍集団を2分割した。ひとつはカフカスの山岳地帯を越え油田地帯を制圧するA軍集団であり、もうひとつはヴォルガ川屈曲部に位置するスターリングラード周辺に撤退したソ連軍を追撃するB軍集団である。第17軍はA軍集団に属し、カフカスの山岳地帯に侵攻した。
一方、B軍集団の主力をなすパウルス将軍の第6軍はスターリングラードに突入、寸土を血で贖う凄絶な市街戦の結果、市の大半を制圧し、防衛にあたっていたソ連第64軍をヴォルガ川に面する一角に追い詰める。しかし、攻勢の限界点に達しようとしていた第6軍に対しスターリンは、一大反攻計画を発動、スターリングラード郊外の南北を守備していた脆弱なルーマニア軍部隊に大量の予備軍を投入し戦線を突破、逆に第6軍を包囲してしまうのである。
第6軍が包囲されたことは、それだけでもブラウ作戦の完全な挫折を意味したが、さらに大規模な破局の危険性をも意味していた。ヴォルガ川でソ連軍をくい止めていた第6軍が壊滅してしまえば、ソ連軍はカフカスの入り口を封鎖して、奥深く侵攻していたA軍集団全体を巨大な罠に閉じ込め殲滅することが可能だからだ。そうなれば、ドイツ東部作戦軍の主力が失われ、戦争全体の敗北が確定してしまう。
42年の暮、ヒトラーはA軍集団のカフカス撤退を決定。軍集団の装甲主力である第4装甲軍はドン川河口のロストフの陣地へ、第17軍はタマン半島の陣地へと撤退作戦を開始した。カフカスの狭い入り口であるロストフにソ連軍が先にたどり着けばA軍集団は壊滅、という時間との競争を制し、翌43年2月、第4装甲軍と第17軍はそれぞれの陣地への撤収に成功する。
つまりシュタイナーたちはロシアの南の果てであるカフカスの山岳地帯に侵攻し、敵のの追撃を防ぎながら、危機一髪でタマン半島まで撤退してきたわけだ。ところで、塹壕陣地にいるシュタイナーの部隊は映画の前半、散発的な砲撃、歩兵との白兵戦以上の戦闘には巻き込まれない。比較的安定した前線を守備しているのだ。彼らはタマン半島のどのあたりにいたのだろう?
作品の最初のほうでマイヤー中尉がストランスキー大尉に、彼らの位置を特定するヒントとなるセリフを言う。「ノヴォロシースクの戦闘でスタイナーはブラント大佐の命を助けたのです。自分の命もね」。
ノヴォロシースクはタマン半島の南の付け根に位置する都市である。スターリンは43年2月、第17軍に対しノヴォロシースクから少し離れたオセレイカで大規模な上陸作戦を実施する。上陸作戦自体は失敗に終わるのだが、その陽動作戦として行われたノヴォロシースク郊外スタニチュカへの上陸は成功し、ソ連軍はここに橋頭堡を築く。ソ連軍は海上からの大々的な補給でこの橋頭堡を強化し、以後7ヶ月間にわたって、第17軍と死闘を繰り広げるのである。マイヤーが言及してるが、このノヴォロシースク橋頭堡を巡る戦闘であるのは間違いない。シュタイナーたちは、ノヴォロシースクの戦闘から離れ、半島北部の前線陣地を守備しているという設定ではないだろうか?
ノヴォロシースクで第17軍が血みどろの闘いを続けていた43年の早春から秋にかけて、タマン半島のはるか北、ハリコフ周辺では独ソ戦の《天王山》と言うべき戦いが推移していた。スターリングラードにおける第6軍の降伏で大穴のあいたドイツ軍戦線にスターリンは南西方面軍の主力を投入し、撤退する南方軍集団を追撃させた。しかし南方軍集団の司令官マンシュタインは追撃してくるソ連の機甲部隊をドニエプル川とドネツ川の間に誘い込み、兵站ラインが延び切ったところで、戦略的撤退により抽出した全装甲兵力を投入、これを殲滅したのである。ここで、スターリングラードに始まったドイツの戦線崩壊に歯止めがかけられ、春の雪解けで戦場が泥濘化したこともあり、戦線は一応の安定をみる。
一連の戦闘の結果、ハリコフの北では、クルスクを中心にドイツ戦線をえぐる形で巨大な突出部が形成された。43年夏、ヒトラーはドイツの装甲兵力の大部分を投入し、この突出部を南北から切り取り、内部のソ連軍を殲滅する乾坤一擲の作戦を実施する。43年の夏期攻勢「ツィタデル《城砦》作戦」である。
この作戦は、突出部内部に何重もの防衛ラインを敷いていたソ連軍に阻まれ、さらに米英軍がシチリアに上陸したことから中止に追い込まれてしまう。裏目に出たヒトラーの大博打は、ドイツ軍にとって致命的なものだった。クルスクで予備の装甲兵力を無意味に蕩尽してしまったドイツ軍に、米英の物資支援を受け、軍需産業が回復して巨大化し始めたソ連軍の大反攻を支える力はすでになかった。43年の夏から冬にかけ、南方軍集団の戦線ははるか西のドニエプル川まで押し戻されてしまうのである。
タマン半島の第17軍も43年9月、南方軍集団の全面的な撤退に合わせてタマン半島から狭いケルチ水道を渡り、対岸のクリミア半島に撤退する。この作品の後半で描かれているソ連軍の大攻勢とドイツ軍の撤退はこの時のものだろう。「クリームヒルト作戦」と命名されたこの撤退戦は、ドイツが制空権を握っていたこともあり、比較的スムーズに遂行されたと言われる。しかし撤退戦の最後尾で敵の攻撃を一手に引き受ける部隊の運命は、この作品で描かれたように無残なものだったに違いない。
クルスク戦以降、ドイツが戦争の主導権を握ることは二度となかった。第17軍も44年5月にはクリミアからの撤退に失敗し事実上潰滅する。東部作戦軍はソ連軍の大攻勢に押し潰され、パルチザンの破壊工作に出血しながら、かつて電撃的に席巻した土地をジリジリと撤退していった。そして地獄の敗北行は1945年5月、ベルリンまで続くのである。
(執筆:BD6)
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